うんたら百選

例によってあんまり公的に触れられたくないので、キーワードで探されないようにしてます。なら書くなよってのはわかるけど、正直なところ僕は部外者なのでね、部外者は言及してはいけないという風には僕は思わないんだけど、このサイトはあくまで僕個人として思ったことを書くだけっていうスタンスでやっていきたくて、加えて特別「百選」に興味が湧かなかった人間だから、この件に触れるのも最初で最後だろう、というのがあって。リファもできれば勘弁していただきたいです。引用したければお好きなように転載しちゃってください。とはいえ反論されることを避けるという意図は全くないので、何かあればjack_frost_12@hotmail.comまでメールしていただければお答えします。要するに「『はてな内の僕のスペース』で一定の人に見られるのは構わないが、『はてな全体』というあまりに公的な場で議論したくない」ということです。わがままここに極まれり! すいません! あ、コメントは構いませんよ。

僕の個人サイト歴はサイトスペースを借りて自分でタグ打ってちまちまやってたのが最初で、それから3年経った今、はてなダイアリーをやってるのでそう思うのかもしれませんが、この企画が「選民思想だ!」などと批判されてしまうのはむしろ逆に「内輪」でやらなかったからだと思います。

はてなダイアリーのユーザーが万単位に膨れ上がってるので、これは半ば公的なものと認識しても間違いじゃないと思っているのですが、そんな中で「はてなダイアリークラブ」なる、ユーザーなら誰もが参加できる企画の集合体の中に「百」という枠を設けてしまった企画があるのがそもそもおかしい、と思うんです。はてなダイアリーのユーザーなら誰でも参加できるもののはずが、100人までしか受け付けませんよというのはおかしい。その枠が企画を面白くするかどうかはまた別で、前提としてある「はてなダイアリークラブ」の趣旨に著しく反していると言わざるを得ない。キーワード説明にある

まず、他のはてなダイアリークラブのように自由参加形式にしてしまうのは「百選」という性質にそぐわないと判断したからです。

この判断がどうかしてる、と思うんですよ、僕はね。だったら別にはてなダイアリークラブっていう半ば公的なものでやる必要ないじゃないかってね。内輪でやりゃあいいんでないの、と思うわけですよ。

はてな界隈の外では、例えばリレー日記でここまで揉めたり、あるいは「選民思想だ!」みたいな大仰な批判が飛び出したりするのを見たことがありません。これは「百選」の企画の面白さが、通常見かけない理由の一端を担っているだろうことは否定しませんが、むしろそもそもの前提に枠があって、乱暴に言えば「内輪」であることに起因するのではないかと思います。例えば、ある個人サイト運営者が「リレー日記をしましょう。回された人はテーマにそった日記を書いて、誰か次の人に回してください」という趣旨で企画を立ち上げたとします。この「回された人は誰か次の人に回す」という前提がすでに内輪ですね。もちろん企画者と100人目の人が全く面識がないということもあるでしょうが、バトンを渡す前後の人は少なくともネット上でのつきあいはあるはずで、それは個人的な関係です*1。その選出に批判が噴出しないのは絶対的な前提があるからです。すなわち、企画者の意図。この企画者の意図が適切でない場合、例で言えばリレー日記が回っていく中で企画者が独断で「この人は面白くないのでリストから消します」なんてことをしたらそれはもう大変なことになります。それは企画者自身が最初に企画したものの前提を無視したことになるからです。

こういう個人サイト発の企画が設ける「内輪」という枠に問題がないのは、そういう企画のそもそもの成り立ちが「内輪」だからです。はてなダイアリークラブのような半ば公的なものとは違う。「ネットに参加できる人」という大前提はあるものの、これは何かを規制したりするものではありえない。昔風に言うところの「ネチケット」は別としてね。

「百選」でややこしいのは前述の通り、企画者の意図という「前提」の前にはてなダイアリークラブという「公的な」「大前提」があるからです。確かに「百選」の企画は企画者の意図どおりに行われたかもしれませんが、「大前提」の面で考えれば著しく不適切な企画であったと言っても過言ではない。繰り返しになりますが、要するに企画者の企画の時点ですでに破綻してたんじゃないか、と僕は思うんですね。

僕は「内輪」という閉鎖的な環境についてはあまり否定的な考えを持っていません。持っていないので、例えば僕がこういう企画にもっと近い立場にいたにもかかわらず参加できなかったというようなことがあっても、僕個人としては「仕方ないか」程度にしか思わないんですが、はてなダイアリーという捉え方によっては開放的とも閉鎖的とも取れる環境において、ちょっと公的でちょっと私的みたいな、どっちつかずな企画を立て、実際にそのことについて「閉鎖的である」みたいな批判が出ていることから、「事実として閉鎖的・開放的なのかが問題ではなく、ネガティブな方向で閉鎖的であるという印象を与えてしまった企画であることが問題」と思っています。そうしないためには、やはり「はてなダイアリークラブ」というはてなユーザーにおいて公的なカテゴリにおいては「百」という枠を設けない、あるいは最初からはてなダイアリークラブを使わない、という方向しかないのではないかと。まあ、キーワードに登録できる利便性も企画を登録するに当たった大きな要因だと思いますが、逆に言えば1人で処理できないスケールのでかいことをはてなの利便性なしに行うことが不可能ならばやるなよ、と思ったり。いや、何度も言いますが企画自体は面白いと思うんですけど。

あとはまあ、「ふってくれリスト」を作ったことが開放的・閉鎖的であるという境界をさらにうやむやにしてしまったとも思いますが、「是非参加したいんです!」みたいな人もいるんで、そういう対処の仕方でもしないと難しかったとは思いますね。

(最後に蛇足的に企画者の意図を憶測したのですが、企画者本人から反論があり、それによると僕の憶測は全く的外れだったようで、そのことについて僕が反論する術は全くないことから、またこの憶測はこの企画において肝要な部分ではないことから、削除させていただきました)

書籍化における問題点は既にいろいろなところで触れられていて、その多くが至極真っ当なので割愛。

*1:コメントでnobodyさんが「ぼくにバトンを回してくださったかたと、ぼくのあいだには、実生活でもコンピュータ・ネットワークの上でも、おつきあいはありませんでした。それから、ぼくは、ぼくの次に書いてくださるかたに執筆のお願いするときに、たいそう苦労いたしました。ずうずうしくお願いできるほどの知りあいは、いなかったから」という事実については、しかしながら同じはてなユーザーという共通点があり、繋がりは皆無だった、という風には思いません。さて、これが「個人的な関係にあたるのかどうか」ということなんですが、そもそも僕がはてなダイアリーを「半ば公的な場」として考えているということは前述の通りであり、ならば「はてなの繋がり」はむしろ公的なものではないか、と考えるのが自然かもしれません。しかしはてなユーザーには「はてなダイアリーを利用している」という共通理解があり、これはネット全体の中では枠の1つです。つまり「はてなは公的な場に近いものがあるが、ネット全体から見れば狭い」と思います。そしてその広さで語るとすれば、はてなユーザーという枠は内輪であると言えなくもありません。そういうこともあって、「公的な場」と断言するのではなく「半ば」という修飾をしてうやむやな表現になっているわけです。