今更だけどいかりや長介追悼ドリフ番組の「死」を連想するキーワードへの「ピー音」処理について

「チョーさん」に対して特別な思いがある人にとって、いかりや長介が一生懸命構成練って好評を得たコントに対して「ピー音」の処理を施すというのは、興ざめというよりも怒りに近いものが湧き上がる気持ちはわかります。「冒涜だ!」みたいな。そこまで行かなくても「チョーさんの意志を全く汲んでいない」みたいなね。ただいかりや長介という方は「ドリフのチョーさん」のみならず「踊る大走査線の和久さん」をはじめとする「俳優」としての地位も大きいものがあって、後者の面から入ってファンになった視聴者にとっては「死」を連想するキーワードを聞いていい思いをするわけがない。

テレビ局側の意図としては「ドリフのチョーさん」すなわち「いかりや長介といえばドリフ」という観点から追悼番組を編成したのだろうけど、その優先順位が間違っているとも思わないけど、「いかりや長介」という偉大な先人そのものを追悼するに当たってないという印象があった。つまり「ドリフの追悼番組」だったんじゃないか、ということです。もちろんドリフの他のメンバーは健在であるし、「チョーさんは死んだ。だからドリフも終わりだ」なんていうのは本人が認めたとしてもドリフのファンが猛烈に反発するだろうから、ドリフの終わりをはっきりと掲げるのはかなり難しいかったとは思うけれども、実質ドリフの追悼という内容だった番組の冠が「いかりや長介追悼」といういかりや長介のファン全員に向けるものであったという、内容と命題に最初から矛盾をはらんじゃってて、スタンスとして中途半端にならざるを得なかったのではないかと思います。その弊害の最たるものが「ピー音」処理だったんじゃないかと。